はじめに
父から娘に贈る数学
君が生まれたとき、君には幸せな人生を送るとともに、この社会の進歩に貢献できる人になってほしいと思った。現代の社会にはいろいろな問題があるが、僕は自分たちが人類の歴史の中で一番素晴らしい時代に生きていると思っている。自分の子供がこの世界の最良のものを享受することは、親なら誰しも望むことだ。 だけど、それだけじゃない。この社会は、人類が知恵と努力で作り上げてきたものだ。それを楽しむだけでなく、さらによいものにして、未来の世代に受け継いでいってほしいと思う。
21世紀は不確実な世界だと言われる。国際社会のルールもどんどん変わっている。中国には13億人、インドにも 12億人の人々がいる。その多くが高等教育を受け、知識産業に従事するようになったら、世界は大きく様変わりするだろう。こういう話をすると、日本や米国のような先進国の若者の将来が脅かされると考える人もいるけれど、僕はそうは思わない。発展途上国にいる何十億もの人々がよい教育を受ける機会を持てば、 現代社会の様々な問題を解決するための新しいアイデアも次々に生まれてくるだろう。世界全体の教育レベルが上がれば、分配すべきパイも大きくなる。これは 21世紀に生きる君にとって、チャレンジであるとともに、大きなチャンスでもあると思う。
このように変わりつつある世界で必要とされるのが、自分の頭で考えることのできる能力だ。欧米の大学教育には「リベラル・アーツ」という伝統がある。これは古代ギリシアやローマの時代に始まったもので、リベラルとは本来自由、つまり奴隷ではないという意味だ。つまり、リベラル・アーツとは、自らの意思で運命を切り開いていくことが許される自由人の教養のことだったんだ。指導者になるためには、想定外の問題に直面したときに、自分の頭で考えて解決する能力を鍛えておかなければいけないというわけだ。
古代ローマではリベラル・アーツは、「論理」、「文法」、「修辞」、「音楽」、「天文」、そして「算術」と「幾何」の7つの部門からなっていた。最初の3つは、説得力のある言葉で語るための技術だ。考えというのは言葉にしてはじめて形になるのだから、しっかりした言葉で語れることは、自分で考える能力をつけるためにも必須だ。
このなかに、「算術」と「幾何」という数学の分野が入っているのが面白いと思う。言葉を扱う文学や外国語は文化系科目、数学は理科系科目とされるが、僕は数学の勉強は言葉を学ぶようなものだと思っている。数学とは、英語や日本語では表すことができないくらい正確に、物事を表現するために作られた言語だ。だから、数学がわかると、これまで言えなかったことが言える、これまで見えなかったことが見える、これまで考えたこと もなかったことが考えられるようになる。
僕は小学校の時には算数がそれほど好きではなかったけれど、中学になってからは数学が楽しいと思 うようになった。そのきっかけは、「自分の頭で考える快感」がわかったことだった。数学の問題を正しく解いたときは、答えはそれしかなく、それ以外にはない。学校で解き方を習っていない問題を、自力で解いたときの喜びはとりわけ大きい。そして、その答えが正しいかどうかも、先生に尋ねなくても、自分で判断できる。赤ちゃんが自分の足で歩けるようになったときのように、新しい力が授けられ、世界が広がったと感じたのを覚えている。君にもその喜びをわかってほしいと思う。
本書では、21世紀に有意義な人生を送るための数学について話そう。もちろん、数学をきちんと体系的に勉強するためには、学校の教科書を使うのが一番いい。数学は言語だと言ったけれど、たとえば数学をフランス語にたとえると、この本は文法を一から勉強する教科書ではなく、フラ ンス旅行のための実践的な会話集のようなものにしようと思う。パリのレストランに行ってフランス語で注文してみる。もう少し欲を出すと、ギャルソンが「本日のお勧め」を説明したときに、どんなものか見当をつけて、注文すべきかどうか判断できるようにしたい。また、ときにはルーブル博物館に行き、過去の偉大な作品に触れることで魂を豊かにしよう。本書でも、数学の実践的な応用とともに、古代バビロニアやギリシアの時代から育まれてきた数学の素晴らしさを語りたいと思う。
僕は数学者ではない。1989年に東京大学から物理学の博士号を授与され、5年後にカリフォルニア大学バークレイ校の教授に なったときにも、また2000年にカリフォルニア工科大学に移籍したときにも、物理学教室に所属してきた。ところが2010年になって、数学教室の先生方が、僕に数学教授を併任するよう勧めてくれた。僕は「名の残る定理を証明してもいないのに」と言って辞退したのだが、「定理の証明だけが数学に貢献する仕方ではない。あなたの研究は数学に新しい問題を提示して、その発展を触発している」と言われて、受けることにした。実際、僕の名前のついた数学の予想があって、そのいくつかは数学者によってきちんと証明されている。そのようなわけで、僕は定理を証明する数学者ではないが、数学の使い手としては認められている。本書で語るのも、使い手の立場から見た数学だ。
本文に書ききれなかった解説やその先の話題、参考文献などは、補遺として僕のウェブページで公開することにした。こうしておけば、数学に新しい発展があったときに補遺に反映させることができるし、新しい参考文献を付け加えることができる からだ。もちろん、この本は補遺を参照しなくても読めるように書いてあるけれど、一度読んでさらに詳しく知りたくなったら、『数学の言葉で世界を見たら』 付録のウェブページ に置いてあるので、見てみるといいかもしれない。本文の中でも関連する場所で引用していくことにする。
では、最初の話をはじめよう。